《People's Republic of China / 中華人民共和国 〜 Russian Federation /Российская Федерация/ Rossijskaja Federacija》

ロシアとの国境(黒河〜Blagoveschensk)
撮影場所:中国黒龍江省、黒河

(2005年5月)

国境を流れるアムール河(黒龍江)、川幅は約800m

対岸は、ロシア連邦アムール県ブラゴベシチェンスク。共産時代の建造物の他、19〜20世紀初に建てられたと思われる、煉瓦造りのビル、バロック調の建物が見える。

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アムール河(=黒龍江)の中州・大黒河島は、中国領

この中ロ国境には橋がないため、往来は国際フェリーのみ
(冬は全面凍結。氷上を、バスかトラックで往来する)

大黒河島(アムール河の中州)は、自由貿易区( 大黒河島中ロ辺境民互市貿易区)になっている。大黒河島には、中国側の出入国事務所、及び国際フェリー乗り場がある。


●中ロ国境貿易

大黒河島の「大黒河民貿市場」では、ロシア商人、ロシア商人及び中国人貿易商に雇われたロシア人の担ぎ屋などが買い付けに来ている。ただしここで売られているブランド物は、ほぼ全て《偽物》だが、それでもロシア人には人気があるらしい。

ロシア商人及び中国人貿易商が何故「ロシア人担ぎ屋」を雇うかというと、ロシア人だとロシア側の通関を円滑に通れるから、らしい。黒河でロシア人担ぎ屋に荷物を渡して越境させ、対岸のブラゴベシチェンスク(の通称相手)に品物を運ばせている。1回あたりの賃金は400ルーブル前後(1ルーブル=約4円)とか言うてた。

消費物資に関しては、中国人は売り手であり、ロシア人の買い手市場となっている。

1993年頃の黒河ーブラゴベシチェンスクは、国境貿易の拠点としてもっとも繁栄した。ブラゴベシチェンスクの市場には、中国物資が溢れる中国人経営の店が多数あった(問屋を含む)。ロシア人は中国物資のある店で買い物をした。地元のブラゴベシチェンスクのみならず、ロシア全土から買い物客が訪れた。

ロシア当局は、ロシアに滞在して中国製品を売る「中国人貿易商」の急増に危機感を抱いた。中国人の入国を制限する為に“ビザ制度”を導入する。ロシア領事館は黒龍江省黒河から遠く離れた遼寧省瀋陽にしかなく、ビザの発行件数も制限された。しかもビザ受領までに時間がかかる上に、ビザ代は高額だった。

“ビザ制度”の効果はてきめんで、中国人貿易商は激減する。結果、現在のように、ロシア側から中国へ買い出しに行くかたちへと変化した。

現在の中ロ国境貿易の中心は、黒龍江省綏芬河である。現在も“ビザ制度”はあまり変わっていないが、ロシア連邦の大都市ウラジオストックから、綏芬河へは直接列車で行けるし、宿泊施設等も充実している。こうして黒河ーブラゴベシチェンスクの国境貿易は往年の勢いを失った。

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※中ソ国境の確定

16世紀頃、黒海〜カスピ海の間に住むロシア人の商人は、民兵(コサック兵団)と共に、毛皮を求めて強引な方法でシベリア地域に東進してきたため、先住民ブリヤート・モンゴル族との争いが絶えなくなる。先住民は清朝に救済を求めた。そのため、1640年代以降にバイカル湖東岸を制圧したロシア帝国は、清朝と対峙する。

ロシア帝国(ピュートル大帝、在1682〜1725年)はシベリアへ正規軍を派遣する。ネルチンスクとアルバジン(アムール州)に砦を築いた。対する清朝(康煕帝、在1661〜1722年)もシベリアへ遠征軍を派遣。ロシア側のアルバジン砦の陥落に成功した(1685年)。

ロシア帝国は、国境紛争を「交渉」で解決する方針に転換、清朝も同意する。1689年、ロ清間で「ネルチンスク条約」が結ばれた。結果、アムール川の支流アルグン河・スタノボイ山脈(外興安嶺)・モンゴル高原に至るラインが国境となる。しかし清朝の弱体化、イギリスと清朝の間におきたアヘン戦争(1840〜42年)の清朝の敗北(以降、中国大陸の半植民地化が加速)に乗じて、ロシア帝国は、清朝(中国)東北部への侵出を企む。

1858年5月28日、黒河の南方35kmにある「愛琿」で、ロシア帝国使節東シベリア総督ムラヴィヨフにより、清朝(中国)との間に「愛琿条約」を締結。さらに1860年には「北京条約」を締結。愛琿条約・北京条約も不平等条約であったが、結局、両国の国境はアムール河以北と確定され、清朝は沿海州(アムール河・ウスリー河・日本海に囲まれた部分)の103万平方mをロシア帝国へ割譲、現在に至る。

※あい=王+愛、現在は簡略字の愛を使う

(2005年5月)

国境を示す標識
国境を流れるアムール河(中国名は黒龍江)

対岸は、ロシア連邦アムール州の州都ブラゴベシチェンスク

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(対岸は、ロシア連邦アムール州の州都ブラゴベシチェンスク)

1980年代後半に国境開放されている。対岸のブラゴベシチェンスクの住民は、気軽に買い物をしにやってくるが「貿易をしている」という感じではない。近場にお買い物、という感覚。

晩秋になると黒竜江は氷結するが、“渡し船”に代わって、ホバークラフトやトラックが氷の上を走る。

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黒河でもっとも賑やかな所

遊覧船のりば、ドックなどがある
この部分を除けば、長閑な川縁が続く


■黒河市 Heihe
http://www.heihe.gov.cn/

黒龍江省ハルビンから北へ631km。中ロ交通・貿易の要地。アムール河(黒龍江)を挟んだ対岸は、ロシア連邦。黒河市区人口は18.4万人(2000年末)。国家レベル合作区では、輸出加工区・ハイテク開発区・生活サービス区に分けられている。

電力不足が深刻な中、その解消策として、2004〜2013年の期限付きで、ロシア連邦アムール州の2カ所の水力発電所から、累計154億kwの電力を供給する。電気料金は1kw当たり1.8セントで双方とも合意している(今後の供給量拡大に伴い、価格の引き下げも検討)。黒河市に供給された電力は、主に市区内の高エネルギー消費型工場で使われるとか。

冬は昼間でもマイナス30度、と極寒の地。アムール河(黒龍江)は当然、全面凍結する。

満州時代の黒河は、ソ満国境(現・ロ中国境)の要衝であり、関東軍の対露特務機関が駐留。黒河および周辺にはいくつかの「地下要塞」が築かれていた。

■アムール州ブラゴベシェンスク

1858年、軍事監視所が建てられたことで、町の建設が始まった。当時の名称は「ウスチ・ゼヤ村」。1858年の「愛琿条約」を契機に、アムール県設置およびブラゴベシェンスク市への名称変更を行った。この町には、サハリン旅行の際に立ち寄ったチェーホフ、ニコライ皇太子(のちのニコライ2世)が訪れている。現在はアムール州の州都で、人口は約23万人。

アムール州は、極東有数の農業地帯(全ロシアの約50%の大豆を生産)で、ブラゴベシェンスクは、その大豆の集積地。またアムール河交通・シベリア鉄道の要衝でもある。

19〜20世紀初頭には、ブラゴベシチェンスクに日本人(民間人)が約170名住んでいた。第二次世界大戦後、多くの日本人抑留者がアムール河を渡り、アムール州各地へ強制連行された。

町にはかつての軍艦専門の造船所「10月革命造船所」がある。現在はほとんどが政府受注による造船工場となっている。

中国へは主に屑鉄・材木を輸出。中国からは食料(ジャガ芋など)を輸入している。






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