《 People's Republic of China / 中華人民共和国〜Democratic People's Republic of Korea / 朝鮮民主主義人民共和国 》

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)との国境
撮影場所:中国遼寧省、丹東

(2005年5月)

国境の橋を走行する、国際列車
(中朝友誼橋、かつての鴨緑江第二橋梁)

写真右が中国側で丹東市、左が北朝鮮側で新義州市。下に流れる川は国境を兼ねる「鴨緑江」(朝鮮語では「アムルクカン」という)列車だと、新義州駅から丹東駅までは7分間。新義州駅から平壌駅までは京義線(平義線)と呼ばれる。

鉄路・自動車道併用の中朝友誼橋(旧・鴨緑江第二橋梁、2本目の橋)は、時間を決めて相互通行している。たまにマイクロバスやワゴン車等の自動車、また貨客車や貨物専用の列車の通行がある。

写真の列車は、モスクワ〜満洲里経由〜北京〜瀋陽経由〜平壌間の国際列車。

先頭が北朝鮮の電気機関車。1両目が貨物車両、2〜3両目が北京行き(中国車両)、4両目が食堂車(ロシア車両)、5〜6両目がモスクワ行き(ロシア車両)という編成だった。編成はその時に応じて色々ある。

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※北京〜平壌(1,347km)の国際列車(中国列車時刻表2005年5月版より)

北京→瀋陽経由→平壌(K27次)
北京発(17:25)=毎週月・水・木・土(丹東着7:28/丹東発9:35)
平壌着(翌19:00)=火・木・金・日

平壌→瀋陽経由→北京(K28次)
平壌発(10:10)=毎週月・水・木・土(丹東着16:23/丹東発18:56)
北京着(翌9:23)=火・木・金・日

※平壌を出発して6日後の18:09、モスクワ(ヤロスラヴ駅)に到着。このルートで金正日将軍様はモスクワに行った。将軍様の車列には、最前と最後尾に電気機関車があった。

※北朝鮮ではビザは別紙で発行する(出国時に没収)。パスポートにスタンプを押さないので、入国した証拠は残らない。

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北朝鮮側の車両
(4人乗りコンパートメント、硬臥扱い)

列車等の往来があるときのみ、橋に歩兵が立つ

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実際に列車に乗って北朝鮮に行ってみた
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満州国時代は、丹東市は「安東市」とよび、新義州市は「新義州府」と呼んでいた。日露戦争中、日本(朝鮮総督府)は、物資輸送の目的ため軍用鉄道・京義線の建設を画策する。

日本政府は1906年、安東(現・丹東)〜奉天(現・瀋陽)間の鉄道《安奉線》とその付属地を経営のために、南満州鉄道株式会社を設立した(半官半民の国策会社。満州軍野戦鉄道提理部が母体、通称・満鉄)

1908年頃に安東駅(現・丹東駅)を建設(近年、駅舎を建て替えた)

1909年8月、朝鮮総督府鉄道局は、鴨緑江橋梁(現・鴨緑江断橋)着工、1911年に完成した。日本初の潜函工事は日本の間組(東京都港区虎ノ門2-2-5)が担当した。1911年11月、南満州鉄道と朝鮮鉄道が連結、釜山から奉天までの直通列車が開通した。

満州事変(1931年)が勃発すると、安東(現・安東)は直ちに日本軍に占領される。満州国は安東省を新設(1934年、1937年に安東市に昇格)。満鉄は、1943年4月に鴨緑江第二橋梁(現・中朝友誼橋)を建造している。

日本から満州へ行く時は、日本からまず「関釜連絡船」に乗り釜山(韓国)へ。急行ひかり号・のぞみ号などは、釜山からは列車で平壌を経て、満州・朝鮮の境に架かるこの橋を渡り、安東(現・丹東)から、満州北部の奉天(現・瀋陽)や新京(現・長春)へ向かった。

日本からの軍需物資を最短・最速で、満州国内部へ運搬出来た。




参考資料





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