《Republic of Croatia / Republika Hrvatska 〜 Bosna i Hercegovina / Босна и Херцеговина

クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境(Zagreb〜Bihac ルート)
撮影場所:クロアチア

(2000年7月)

ボスニア・ヘルツェゴビナ側の国境

ぜんぜん厳しくないイミグレ、だった

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この国境は、クロアチア紛争(1991年8月〜1992年1月/1995年5〜8月)での激戦地クライナ地方にある。周辺の家々は、ボコボコに破壊されているか、銃弾や砲弾を受けている。クライナ地方はかつてのセルビア人居住区《クライナ・セルビア人共和国》の地であった(1991年12月〜1995年8月頃)

クロアチアは11世紀末からハンガリー王国の干渉を受け、ボスニア・ヘルツェゴビナは15世紀に「オスマン帝国領」となり、オスマン帝国とハンガリー王国(ハプスブルク帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国)の国境が、現在のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナとの国境となった。

クロアチアの国境部分を統治していたハプスブルグ帝国は、オスマン帝国の侵攻を防ぐため、クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境一帯クライナ地方に《軍政国境地帯》を作った(1578〜1881年)。

オスマン帝国の支配を嫌う(主に現在のコソボに定住していた)セルビア系住民の多数を《軍政国境地帯》に移住させ、税制面など優遇する代わりに、国境警備兵(傭兵、屯田兵)として配備した。この子孫の多くが、1995年までクロアチアに住むセルビア人であった。

1918年12月、ユーゴスラビアの前身「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」が建国されたが、国家運営を巡ってクロアチア人とセルビア人の反目が鮮明になる。第二次世界大戦中、クロアチア・ファシスト集団「ウスタシャ」はセルビア人やユダヤ人を惨殺。一方、セルビア・ファシスト集団「チェトニク」はクロアチア人を惨殺した。

だが共産主義を謳うチトー率いるパスチザンが力をつけ、民族の隔てなく団結して1945年3月に王制を廃止。《ユーゴスラヴィア人民連邦共和国》の独立を宣言する。

チトーは、独自の自主管理社会主義と非同盟政策をとる。民族運動を極端に制限したが、ガス抜き的に各共和国と自治州の「自治権」を拡大しつづけたため、民族間問題は起きなかった。

1980年4月にチトー大統領が死去すると、国を纏める指導者が不在になった。また深刻な経済危機に、富裕な北部(スロベニア共和国、クロアチア共和国)と貧困の南部との経済格差が広がった。連邦政府は有効な政策をうちだせずにいた。1987年、セルビア共和国のミリシェビッチが台頭するとセルビア民族主義を煽った。社会不満が鬱積していた人々は、続々と現れた民族主義者の主張に傾倒していく。

1990年5月に誕生したクロアチア共和国トゥジマン政権は、純粋なクロアチア人国家の建設を謳った。ラテン文字の強要、セルビア人の公職からの追放など行ったため、非クロアチア人、特にセルビア人との対立が鮮明になった。セルビア人は独自に警備隊を作り、独自の国家の樹立をめぐる住民投票を行い、自治区を宣言したため、各地で小競り合いがおこる。

1991年6月、スロベニア共和国とともにクロアチアは連邦からの離脱を一方的に宣言する。同年8月にはユーゴ人民軍が介入してクロアチア紛争が始まった。

セルビア勢力はクロアチア共和国の1/3を制圧。1991年12月、クライナ地方・西スラボニア地方・東スラボニア地方のセルビア人自治区が合併し、《クライナ・セルビア人共和国》が宣言される。首都はクニン。

1992年1月、軍事的にはクロアチア共和国の敗北だったが、EC(現在のEU)の仲介で、クロアチア共和国軍とユーゴ人民軍の間で停戦合意が成立し休戦になる。休戦協定により、クロアチア共和国内に住むセルビア人を守っていたユーゴ人民軍は撤退。代わりに国連PKF(国連平和維持軍)が駐留。

セルビア民兵勢力の撤退とクロアチア勢力の非武装化を監視したが、度重なる停戦違反(多くはクロアチア共和国軍の停戦違反)、クロアチア共和国軍・クロアチア民兵・セルビア民兵とも、民間人への「民族浄化」=略奪・強姦・殺害等を行い続けた。だがセルビア勢力はクロアチア共和国内の25〜30%を制圧し続けた。

1995年5月と8月、アメリカの支援を受けたクロアチア共和国軍は、停戦ラインを突破して、まず西スラボニア地方、次にクライナ地方を軍事制圧。残る東スラボニア地方については1995年11月、和平協定「2年以内にクロアチア共和国に統合する」を締結。同地には国連東スラボニア暫定統治機構(UNTAES)が展開した。

だがクロアチア人とセルビア人との溝は深く、難民となって国外に脱出したセルビア人のクロアチアへの帰還は、ほとんどなされていない。それどころかクロアチアに住む他地域のセルビア人も国外に移住し続けている。逆に、クロアチア共和国外に住んでいたクロアチア人の、クロアチア共和国内への“移住”が続いている。

セルビア人が多く住んでいた、国連暫定統治であった東スラボニア地方でも例外ではなく、「2年以内にクロアチア共和国へ返還される」ことを嫌い、セルビア人の出国が相次いだ。セルビア人が去ったところには、他地域で家を失ったクロアチア人が移住したため、クロアチア人住民が急増する。セルビア人がほとんどいなくなった1997年4月の東スラボニア住民選挙では、「クロアチア共和国への返還」決定。1998年1月、東スラボニア地方は、国連からクロアチアに返還された。





参考資料





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