《Republic of Korea / 大韓民國 〜 Democratic People's Republic of Korea / 朝鮮民主主義人民共和国》

パンムンジョム(板門店)
撮影場所:韓国/京幾道坡州市

ソウル市内から北へ約60km。平壤から南の方角に215km。韓国の北西部に位置する非武装地帯(休戦ライン、DMZ:De-military Zone)の中に設けられた、共同警備区域(JSA:Joint Security Area)が、板門店 panmunjeom である。

共同警備区域(JSA)は、直径800mの円形状地帯になっている。北緯38度線の南5kmに位置する(緯度で北緯37度57分20秒、東経126度40分40秒)

板門店とは、かつて「板門店」という麺食堂や煙草屋があった、ことが名前の由来らしい。元来、ここは藁葺き屋根の家が4棟あるだけの、ノルムンリという名前の寒村だった。

1951年7月、朝鮮戦争の休戦のための準備会談が、北朝鮮側の開城で開始されたが、国連側の要請で、突然、この板門店に場所を移した(1951年10月25日)。休戦までに要した会談は、1076回(公式には158回らしい)に及んだ。

なお、朝鮮戦争休戦協定が調印された建物は、現在の共同管理区域(JSA)よりも800mほど離れた、北朝鮮側の非武装地帯内にあり、韓国側から立ち入ることは出来ない(遠景でみえるが)。

板門店には7棟の建物が建っているが、3棟を国連軍が、4棟を北朝鮮側が管理している。韓国も北朝鮮も、いづれも行政管轄権がない特別な地域となっている。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

(2001年8月)

板門店の共同警備区域(JSA)

写真の青い建物(国連/韓国軍の共同管理)の左から2棟目が、南北の対談場である「軍事休戦委員会本会議場」。

*

韓国軍兵士は、常に射程距離に身を置いているため、青い建物の角の外壁に半身を隠し、半身は北朝鮮側を凝視できるよう、皆、手のひらを「ぐー」にして、気張って立っている(テコンドーの構え?)。全く動かない。いざという時のため、足下が滑らないようにラバーマットが敷かれている。

一方、北朝鮮(朝鮮人民軍)兵士の構えは“直立不動”だが、全く気張っておらず、どことなくリラックスしている。軍事休戦委員会本会議場の中を、ポケットに手を突っ込んだ北朝鮮(朝鮮人民軍)の“上官”らしき人が、時々覗きに来る。

北朝鮮(朝鮮人民軍)兵士と対峙する韓国軍兵士(歩哨兵)は、全員サングラスをかけている。高圧的な威圧感を与える為と、北朝鮮(朝鮮人民軍)兵士に、目の動きを悟られないようにする意味合いもある、らしい。北朝鮮(朝鮮人民軍)兵士は、サングラスをしていない。

*

写真奥の石造りの大きな建物と写真中央の石造りの平屋の建物は、北朝鮮側の管轄。大きな建物は「板門閣」。韓国側の共同警備区域(JSA)の“自由の家監視塔”、通称「八角亭」から撮影。

*

板門店=共同警備区域(JSA)は、休戦協定締結後に結ばれた協約(1954年11月8日)でつくられた。板門店は、非武装地帯(DMZ)内の直径800mのエリアで、共同警備区域(JSA)となり、ここに双方からの代表で構成される“軍事停戦委員会本部”を設置した。

北朝鮮側に、中立国監視委員会本部が置かれ監視委員が常駐していた。中立国監視委員会は、スイス、スウェーデン、ポーランド(1995年撤退)、チェコスロバキア(1993年撤退)。現在はいづれも撤退している。更に北朝鮮側についている中国も1994年に撤退しているため、この本部を使用しているのは、北朝鮮だけである。北朝鮮が、非武装地帯(DMZ)からアメリカ軍(国連軍)の撤退を求めているのは、このため、である、らしい。

当初、6カ所の警備所を設け、北朝鮮/韓国の35人の兵士で共同管理した。1976年以前には、板門店内は境界線が無かったため、北朝鮮/韓国の警備兵は自由に行き来できる地域だった。

だが1976年8月18日「ポプラ事件」を契機に、板門店内にも軍事境界線(分界線、MDL:Military Demarcation Line)が引かれ、 この軍事境界線を境に「分割管理」となった(同年9月16日から)ため、往来は不可能となった。

唯一行き来できる所が、軍事境界線(MDL)上に建てられている「軍事休戦委員会本会場」の内部。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

軍事休戦委員会本会議場

MP(Military policeman)も含めて、撮影し放題
(南北間に緊張がある場合は除く)

現在の「軍事休戦委員会本会議場」の建物は、韓国側のJSAにあるため、水色に塗られている。プレハブっぽい、チャチな建物。

机の上の国連旗(&マイクのコード)が、南北の軍事境界線(MDL)になっている。この本会議場でのみ、自由に“北朝鮮領内”に入ることが出来る。つまり動き回れる。

建物の外、中央には幅30cmのコンクリート製の敷居があり、そこにも軍事境界線(MDL)を示している。1976年のポプラ事件以降、設けられた(実際には38度線よりもだいぶ南にある)。

*

この「軍事休戦委員会本会議場」は、現在も定期的に軍事代表者が会談(朝鮮軍事休戦委員会)する場になっている。500回弱の階段が行われている(いた)。軍事休戦委員会が開かれる時は、北朝鮮/韓国双方の旗が立てられる。

会談の参加者は、北朝鮮(朝鮮人民軍)将校5名、北朝鮮側の代表者として、休戦当時に当事国だった中国から2名、国連軍代表(首席代表のアメリカ軍将校)5名。韓国側の代表者は2名の参加が認められているが、休戦協定調印を拒否しているので、オブザーバーでしかない(発言権なし)。

赤十字など民間組織の会議は、それぞれの管理区域にある「自由の家」で開催される。

*

写真の MP(Military policeman)は、韓国軍兵士。韓国主催の「板門店ツアー」が立ち寄る際、観光客の警護のために立つ。北朝鮮主催の「板門店ツアー」が立ち寄る際、本会議場内の警備は北朝鮮(朝鮮人民軍)MP 兵士になり、韓国側の兵士はいない。双方が遭遇しないように、時間差を設けている。

兵士の前に置いてあるマイクは、常にONになっており、ソウルとピョンヤンに送られている、らしい(つまり盗聴)。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

北朝鮮側の「板門閣」と警備兵
(北朝はたった一人の兵士ね、雑談する兵士は他に数人いた)

1969年9月、北朝鮮は、板門店に「板門閣」をつくった。もともとは2階建てだったが、増築して3階建てになった。

北朝鮮側も「板門店ツアー」があり、このビルの屋上には、Tシャツ&短パンみたいなラフな格好の見学者がこちら(韓国側)を覗く。手を振る観光客もいる。写真も撮り放題の様子。

だが韓国側からの「板門店ツアー」は客への服装チェックが厳しい。勿論、手を振る、なんぞダメ(と予め、禁止事項として注意されている)。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

沙川橋(帰らざる橋)

中央の長さ数メートルの橋は、軍事分界線となる沙川江にかかる「沙川橋」。別名「不帰橋/帰らざる橋」Bridge of No Return と呼ばれる。

朝鮮戦争が休戦、1953年8月5日から一ヶ月間、双方の捕虜の交換を行ったが、その舞台がこの場になった。捕虜交換の時、捕虜は南に進むか、北に進むか、いづれかの国を選ぶことが出来たが、一旦決めたら、もう二度とこの橋を渡って反対側には帰ることができない、が由来。

朝鮮戦争での捕虜は、北朝鮮&中国兵:75,799名、国連&韓国軍兵士:12,760名だった。

1976年8月18日に起こった「板門店事件/ポプラ事件」以降、双方の警備兵の往来はなくなった。

共同警備区域(JSA)だけではなく、非武装地帯(DMZ)の基地に駐屯している部隊は、24時間有事に備えてエンジンかけっぱなしにしている(1分以内に戦闘態勢に入れるようにするため)。

1998年、韓国は、板門店まで約9kmの所にあり臨津江にかかる「統一大橋」が完成させた。ただし橋の路上には有事の際(北朝鮮の侵入)に備えて大きなブロックが多く置かれ、検問所がある。ここから板門店までは「民間人統制区域」になっている。統一大橋がある道路は「1号線」と呼ばれ、将来的には平壌までつなげる、構想らしい。

韓国(金大中政権、当時)の現代グループ名誉会長鄭周永氏(北朝鮮江原道通川郡松川出身、現代グループ創始者、1915〜2001)は、1998年6月と10月、2000年8月、「朝鮮統一の畑を耕す」ために用意した、耕作牛500頭づつ(計約1501頭、約137億ウォン相当)と共に、「統一大橋」を経て「板門店」を通り、北朝鮮を訪問した。民間人初の板門店ルートでの訪問だった。

牛と共に陸路で鄭周永氏は同時に、食糧や建設資材などを無償援助し、北朝鮮の金剛山開発観光事業に着手した。

※板門店事件/ポプラ事件

朝鮮戦争休戦記念として、1953年7月に「沙川橋」のたもとに植樹された。このポプラが成長して、枝が韓国側の第三哨所の視野を妨げ始めた。警備上の理由から、このポプラの木は、毎年枝払い(剪定)していた。

1976年8月18日午前10時45分、韓国人労働者によって、通常通り、枝を斧で剪定していた時、突如、北朝鮮(朝鮮人民軍)将校2名と10余名の兵士がこれを妨げた。

北朝鮮(朝鮮人民軍)の兵士と、警備中の国連兵(アメリカ軍将校2名と韓国軍将校1名を含む、計11名の国連軍将兵らが、ポプラの木の枝の剪定作業を護衛していた)と口論になった。

北朝鮮(朝鮮人民軍)は、自国の兵士を直ちに増員し、兵士約30名となる。

→北朝鮮側:北朝鮮兵士は4名だけと主張するが、証拠写真には多くの兵士が写っている。

剪定作業がそのまま進行するのを見た北朝鮮の将校の「殺せ」の命令により(と言われている)、北朝鮮の兵士が、韓国人作業員が作業に使っていた斧などを略奪して、国連兵を襲撃した。

→北朝鮮側:アメリカ軍将校が、韓国人労働者から斧を奪い、北朝鮮兵士に向かって投げつけた。北朝鮮兵士は、この斧を投げ返した際、アメリカ軍将校に当たり、彼は倒れた。韓国人労働者は全員逃げ、アメリカ軍兵士との間で乱闘になった。北朝鮮兵士数名負傷。

ポプラがあった韓国側の警備哨舎は、北朝鮮側の警備哨舎3カ所に囲まれて,孤立していた。

4分間で、アメリカ軍のボニファス大尉(国連軍警備中隊長)は手足を切断されて死亡。ベネット中尉も斧で頭を割られて死亡。

結局、北朝鮮(朝鮮人民軍)の兵士は、アメリカ兵2名死亡4名負傷、韓国軍将校1名負傷、韓国軍兵士4名負傷、車両3台破壊、第三哨所も破壊し、北朝鮮(朝鮮人民軍)の兵士は、軍事境界線(MDL)を超えて、北朝鮮側に去った。殺傷に使った斧は、現在も北朝鮮が保管している(展示中)。

→北朝鮮は「事件は、米軍の挑発による結果だ」と主張。

沖縄の嘉手納基地からも米軍が出動するなど、朝鮮半島は緊張した。ポプラは事件の3日後に国連兵によって切り倒された(プールバニアン作戦)。同年9月25日、板門店で開かれた軍事休戦委員会本会議にて、金日成主席(当時)が、「遺憾の念を込めた覚え書き」を伝えたことで、最悪の事態(軍事衝突)は免れた。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

●行き方

ここは個人では入ることができませぬ。

韓国からは、大韓旅行社/中央高速社/板門店トラベルセンター/国際文化サービスクラブ、の4社が主催する外国人向けの「板門店ツアー」に参加しなくてはならない(日本語のガイドがつく。他の外国人は別のツアーになる。10歳未満の子供は参加不可)。

日曜日と祝日はツアーは休み。南北情勢、国家行事等で中止になる場合もある。「北朝鮮を刺激しないために」という配慮のため、服装の規定が厳しい。あくまでも、お行儀よくしなければならない。

キャンプ・ボニフィスで「板門店の統合警備地区の見物は、敵性地域への立ち入りを伴わない。敵の行動(活動)によっては危害を受ける又は死亡する可能性があります。統合警備地区は中立地域ですが、一方(南)は、国連軍の軍人により、他方(北)は、北朝鮮の陸軍軍人によって、それぞれ分割警備されています。国連軍のゲストの皆様は、軍事境界線を越えて北朝鮮軍が管理する統合警備区域へ立ち入ることは許されていません。また、事変・事件を予期することはできませんので国連軍、アメリカ合衆国及び大韓民国は訪問者の安全を保障することはできませんし、敵の行う行動に対し、責任を負うことはできません…以下省略」旨の念書(誓約書)に、サインをしなくてはならない。

板門店では、国連軍警備兵に警護されながら(軍用車@機銃を外したハマー)、DMZのバスに乗り換えて移動しつつ、計1時間ほど見学する。

韓国側の共同警備区域(JSA)の最前線補給基地(キャンプ・グリフィス)内にある将校用のレストラン(センチュリークラブ:洋食のバイキングだがキムチはある)で昼食を食べるが、ツアー会社やタイミングによって、場所や時間は異なる、らしい。

※北朝鮮主催の「板門店ツアー」は至ってリラックス。服装規定もなければ、手は振り放題、写真撮り放題。念書(誓約書)もなし。北朝鮮(朝鮮人民軍)の将校がガイドをし、通訳が付く形。

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

●朝鮮戦争(北朝鮮では“祖国解放戦争”、韓国では“6.25 ユギオ”と呼ぶ)

1945年8月15日、日本の敗戦による朝鮮半島の解放の後、朝鮮半島では、独立国家建設に着手したが失敗する。

1948年になると、北緯38度線を境に、アメリカよりの南側が、韓国(大韓民国、1948年8月15日建国)として建国すると、ソ連よりの北側も、韓国に対抗して北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国、1948年9月9日建国)を建国。朝鮮半島内に、2つの国家が出来た。

1950年6月25日、北朝鮮(北朝鮮人民軍)は「朝鮮半島を武力で統一」として、北緯38度を突破して「朝鮮戦争」を仕掛けた。

北緯38度線各地で戦闘が始まると、ソ連の支援を受け20万の兵を擁していた北朝鮮は、9万の兵しか擁していなかった韓国に対して優位に立ち、韓国は首都をソウルから南部の釜山にまで後退させた(1950年8月18日)。

だが、韓国を支援していたアメリカは、同年7月7日、軍事介入を決定。国連安保理で、アメリカ軍主体の「国連軍」を結成した(北朝鮮を支持するソ連は安保理を欠席。国連軍は16カ国で構成された)。

同年7月、ソ連の国連代表の仲介で、休戦交渉が始まった。だが休戦ラインや捕虜問題で話し合いは難航。同年9月15日、アメリカ主体の国連軍(最高司令官はマッカーサー)による「仁川上陸作戦」の成功で、戦況は逆転。

同年10月1日、アメリカ主体の国連軍は北緯38度線を突破。平壌に迫り、北朝鮮軍が鴨緑江まで後退を余儀なくされる寸前の同年10月25日、中国(毛沢東政権)は、北朝鮮を公式に支援を表明して参戦した。

中国義勇軍の参戦により、北朝鮮軍は北緯38度線付近まで押し戻し、ここで2年弱、一進一退を繰り返した。マッカーサーは、中国側からの北朝鮮軍への補給路を断つ為、原爆投下をアメリカのトルーマン大統領(当時)に進言するも拒否され、司令官も解任された。

1953年3月5日、ソ連のスターリン死去。

1953年7月27日、アメリカ/中国/北朝鮮の間で「朝鮮戦争休戦協定」が締結され、ようやく休戦した(終戦ではない)。なお韓国(李承晩大統領、当時)はこの休戦協定を拒否している。同年8月15日、韓国は首都を再びソウルに遷す。

朝鮮戦争では、約126万人といわれる死者、1,000万人以上の離散家族を発生させた。

休戦協定で生まれた軍事境界線(分界線、MDL:Military Demarcation Line)は、全長248km(155マイル)の長さで朝鮮半島を南北に分断し、それぞれ2kmの幅を取っている。このラインを非武装地帯(DMZ)と呼ぶ。

この非武装地帯は直線ではなく、不規則にくねくねした帯状になっている(38度線より東は北、西はやや南にある)。軍事分界線は、西は喬棟島(キョドンド)〜開城(ケソン)の南にある板門店〜鉄原/金化(チョルウォン/クムファ)〜東海岸の明湖里(ミョンホリ)まで引かれている。

この非武装地帯(DMZ)には、今もなお、数千、数万という地雷が埋まっており(両国とも正確な数を把握していない)、その上、水害などの影響でどこに埋めたかも分からなくなっている。

現在も南北双方の兵士が、24時間体勢で監視し合っている。小競り合いやテロ事件は、多い。

*

板門店近くの韓国側の非武装地帯、大成洞(デソンドン、統一村)には、1972年、朴大統領(当時)の提唱で、先祖代々この地に住んでいた人たちと、一定の条件を満たした人たち、87世帯約530人が農業を営みながらが住み始めた。

土地所有権はないが、兵役と納税が免除され、広大な土地を与えられている。だが彼らは、国連司令部の管轄であり、駐韓米軍所属大尉級の民政官の許可なくしては、村への出入りすらできないし、夜間外出禁止(0時〜4時)、常に単独での外出は禁止されている。警備兵が常に見張っている生活を送っている。

一方、北朝鮮側の非武装地帯にも、ギジョンドン村(自由村)という村があり、家屋が建っているが、実際には偵察兵士以外には誰も住んでいない、らしい。南北の2村は、わずか1kmしか離れていないが、交流はない。

北朝鮮は板門店付近で、極秘裏のうち韓国への侵略用トンネルを掘り続けた。このトンネルは、1974年、1975年、1978年、1990年に計4本発見された。いづれもソウルからわずかしか離れていない。

第2と第3トンネルは、大規模なもので、1時間で1万名以上の武装兵力が通過可能だった。



◆板門店ドット・コム
http://www.hanmonten.com/







inserted by FC2 system