《Republika Makedonija / Република Македониjа 〜 Srbija i Crna Gora / Србиjа и Црна Гора》

マケドニア(Prishtina〜Skopje ルート)
撮影場所:マケドニア、ブラツェ

(2001年)

マケドニア側の検問所(土嚢を積んでつくられている)

《2004年5月には撤去されていた》

マケドニアの首都スコピエからコソボ自治州の州都プリシュティナから約3〜5時間。なおマケドニア首都スコピエからコソボとの国境までは、車で20〜40分足らず。

マケドニア側の出入国事務所は、木造の貧弱な建物。コソボ住民やマケドニア住民はひんぱんに通行しているような印象。バスで来る場合は、重装備したマケドニア側の係員が、バスの中に乗り込んでパスポートに、マケドニアの出入国スタンプを押す。ただしコソボ側では出入国スタンプは押されない(チェックのみ。2001年)。

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マケドニアは、1992年の独立直後から、一連の《ユーゴ紛争》に巻き込まれないために、キロ・ギリゴロフ大統領の号令の元、UNPREDEP(国連初の停戦監視団)の1000人以上の兵士がユーゴスラビア(主にコソボ)とアルバニアとの国境を警備したため、コソボ紛争中も隣国マケドニア自身は平和であった。

マケドニアには少数派のアルバニア系住民(公式には23%、実数は3割強)は、武器の密輸をしていたが、国として紛争に自ら介入することはなかった。

コソボ紛争が始まると(特にNATO軍の空爆開始以降)コソボから流出した、アルバニア語では“シプタル”と呼ばれるアルバニア人の難民の多くは、同胞の隣国アルバニアに非難した。アルバニア北部の町クカス(人口2万)は、NATO軍によるユーゴスラビア全土空爆開始以来、10万人近いコソボ難民で膨れ上がり、町全体が難民キャンプの様相を呈した。

コソボ紛争が終了すると、マケドニアとコソボの国境地帯を勢力地とする、アルバニア在住のアルバニア系武装組織とマケドニア政府軍との小規模な衝突が始まる。2001年3月頃からは戦闘が始まった。NATOの介入の下で当事者間の和平協議が行われ、アルバニア系武装組織の武装解除が合意された。

コソボのアルバニア勢力は、アルバニア本国ではなく、マケドニア共和国内のアルバニア人との結びつきを深めているため、マケドニア共和国は危機感を募らせている。




参考資料





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