《India / Bharat》

ドラヴィダ民族の女性
撮影場所:タミル・ナドゥ州ラーメーシュワラムへ向かう公共バス内

ドラヴィダ民族の女性

(写真のような、耳たぶが垂れ下がるほど重たい耳飾をつけた女性は稀少)。写真の女性の腕に彫られたの“花”の入れ墨が見事だった。

入れ墨は、母親が幼少の娘の、腕や額に、針を用いて花の模様を彫り、傷口に植物の樹液を流し込んで染めていく。現在は彫物師なる専門家が行うことが多くなったらしい。

ヒンドゥ教徒の女性の装身具として代表的なものは、鼻飾、耳飾。鼻飾と耳飾は4〜5歳時に肉体に孔をあけている。寡婦(未亡人)は装飾品をつけることは許されない。

ヒンドゥ教では、綿100%の布は、神意にかなった布(清浄)ゆえ、縫製のある衣服は嫌われる。

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■ドラヴィタ民族

主に南インド(タミル・ナドゥ@タミル語、カルナータカ@カンナダ語、アーンドラ・プラデシュ@テング語、ケーララ@マラヤーラム語)に住んでいる。概ね、色黒で小柄。インド全人口の25%を占める。

民族の起源や移動経路や時期など解明されていない。ドラヴィダ民族は、インダス文明(現在のパキスタン東部)の担い手でもあった、らしい。

南インドは、6〜7世紀頃に北インドのインド・アーリア文化の影響を受け始める。10世紀頃にヒンドゥ教が広がり、カースト制度も確立される。だが南インドでは支配者階級(バラモン、クシャトリヤ)が少なく、シュードラが圧倒的に多かったため、深刻なカースト問題は発生しなかった。

中世期には従来のヒンドゥ教から宗教改革運動が興り、著名な宗教家を輩出した。19世紀末〜20世紀以降、北のインド・アーリヤ民族の支配から脱皮すべく、「ドラヴィダ民族主義運動」が活発化する。

土着レベル(建築、宗教儀礼など)では、南インド特有のドラヴィダ文化が残った。南インドのヒンドゥ系王朝パッラヴァ(6〜9世紀末)の頃、インドネシアや東南アジアとの海上貿易が盛んだったため、これら地域にヒンドゥ教が広まり、ドラヴィダ様式のヒンドゥ教寺院が建てられた。15〜16世紀には、中国や中東、さらには欧州からも交流が始まった。

現在も、海外で活躍するドラヴィダ民族は多い。






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