《中華人民共和国》

客家人
撮影場所:福建省

《客家》Hakka (ハッカとは福建省南部の語での呼び方。普通語では、kejia)とは、もともと華北の黄河流域、「中原」と呼ばれる地域(河南省洛陽あたり)に住んでいた、漢族の「名門貴族」の子孫とされている。「客家語」は、かつて中原地方で話していたとされる、北方中国語の古語、が定説になっている。

福建省永定県高頭郷
(客家人の女性は「髪を短く切る」傾向にある)

西晋の末期〜西晋が滅んだ(西暦316年)頃、居住地である「中原」を北方騎馬民族に追われた。この《戦争難民》のうち、富裕層に属していた「名門貴族」や富豪らは、絶え間ない戦禍を逃れるため一族共々、唐時代にかけて、揚子江(長江)を越えた。

第一次移住(317〜879年)の定住地は、華南の安徽/江西省の北部の山間部だった。

だが唐時代の末期になると、農民蜂起による戦乱がおこったため、客家人は、第二次移住(880〜1126年)を余儀なくされた。この時の定住地は更に南下した江西省東南部、福建省西部。

漢民族の王朝である南宋が、北方騎馬民族の元の南下政策で押し出され、皇帝および家臣らが広東省に避難すると、客家人は第三次移住(1127〜1644年)を行い、福建省西南部と広東省北東部の省境一帯(中心地は、広東省梅州市)の山間部に移住した。

清朝の時代になり社会が安定すると、土着民と、人口が増加した客家人の争いが始まる。これに伴い、第四次移住(1645年〜1867年)があり、広西荘族自治区武宣/馬平/賀県などの山間部、広東省西部、台湾の西北岸地方、香港、マカオ、湖南省南部の山間部、四川省成都/重慶/隆昌/栄昌辺り(四川省への移住は清朝の移住政策によるもの)に移住した。

第五次移住(1867年〜)は、華南の福建省/広東省/広西荘族自治区から、東南アジア(タイ、ベトナム、マレーシア、インドネシアなど)への移住だった。

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客家は唐時代より、先住土着民(江西、福建、広東)から、「客而家焉」。つまり“招かざる客/招かざる異邦人”、と称され、《客家》と呼んだ。Hakka とは広東語の発音で、標準中国語(北京語)では、Kejia と発音する。

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福建省永定県高頭郷五雲楼にて

黄河流域から南下・移住してきた客家人は、先住土着民との軋轢(水利、喧嘩など)もあり、誰も住まない未開の丘陵地を開墾して定住した。

客家人は、匪賊や猛獣などから身を守るため、家長を軸(家長制度)に一族は結束、集団防衛をおこなった。山間部の客家人の住居は、生土(自然のままで焼成していない土)で築かれた土楼(方楼・円楼)で、高さは10〜15m。出入り口の門は基本的に、南側に一カ所しかない。土楼や圍屋の外に開けた窓は、3階以上に、それも小さいものがあるだけ。

比較的、開けている広東省や香港などでは、匪賊が頻繁に出たため、より要塞度の高い、青煉瓦や石などを積み重ねた圍屋が多くなる。

客家人の住む土楼や圍屋は、数百人が住める程の規模であり、かならず祖先を祀る祖堂(上堂)、学校(学堂)がある。つまり、1つの圍屋(方楼、円楼など)はそのまま「要塞」となり、1つの村を形成している。

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山間部或いは僻地にしか移住できなかった客家人は、生活が苦しく、自給自足を強いられたので、老若男女が働いた(ただし男性は勉学優先/女性は野良仕事に従事することが多かった)。

そのため、南宋時代に盛行された女性の《纏足》てんそく (女児が4〜5歳になると、足の親指以外の指を足裏に折って、固く縛り、成長させないようにした。成人した女性は、歩行もままならない)という“贅沢な慣習”は、客家人にはなかった。そのため客家人は土着民から、「山に住む大足の女」と悪口を言われた。

客家の一族は、各々の労働収入を一族(家長)が管理し、必要経費はここから捻出するという、「共同会計制」だった。だが核家族化が進んだ現在、例え客家土楼に住んでいても、独立会計制になっている。

客家人女性は、朝早くから夜遅くまで働かなくてはならなかったので、食事(客家料理)は煮物が多い。客家料理の代表的な「梅菜扣肉」は、豚バラの甘辛醤油煮。一度つくれば、副菜(からし菜を日干しした保存菜=梅菜)を足しつつ毎日煮込むと、保存食にもなった。

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客家人は、先住土着民とは一線を画して生活したため、独自の慣習・文化を現在に残すことになった。客家人の移住地は広範囲だが、共通の言語《客家語》を話す。

客家人は、典型的な父系氏族社会(父系の族譜を伝承、婿は取ず、他民族出身の嫁は可能。同姓とは結婚不可)で、先祖崇拝/風水/道教/キリスト教(華南の貿易地などで)などを信仰し、朱子学(確立したのは客家人の朱熹)などに精通している。

移住に追われ、先祖代々の土地がなかった客家人には、「第二次埋葬」という慣習がある。これは一度埋葬した死体を、3〜5年後の、陰暦の8月1日から寒露までの20日間のふさわしい日を選んで、墓を掘り起こし、遺骨を椿油で洗い清める。陶製の甕(金罌)に死者の名前と生没年月日を記し、遺骨を入れる。煉瓦と土で作った墓に陶製の甕(金罌)を埋葬し直す。

移住の必要に迫られたとき、陶製の甕(金罌)を持って出る。定住地が決まったら、これを埋葬した。移住に追われたため、遠くまで先祖の墓参りにいけない客家人は、このような方法をとるしかなかった、らしい。

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客家人は忍耐強い(不撓不屈の精神)。屈辱を受けても報復することはなく、移住という手段をとる。司馬遼太郎 著「街道をゆく40・台湾紀行」(朝日新聞社)に、「客家は現実を客観視する」とある。

客家人は集団住居(土楼)をつくると、楼内に学校をつくった。報復のエネルギーを「教育」に転嫁した。客家人はどんなに生活が苦しくても、教育を最重視した。

こうして優秀な人材(太平天国の洪秀全、タイガーバームの胡文虎、優れた国家指導者:中華民国の孫文/トウ小平/マレーシアの李光耀上級首相/フィリピンのアキノ元大統領/台湾の李登輝前総統/タイのタクシン首相などなど)を輩出した。

人口の増加などで、学校教育は楼外の学校に移った。華僑は競うようにして、故郷に寄附を続けたため、校舎や図書館などが建った。また助学基金会を設立も盛んである。客家人の子弟で、学業意識のある者は、みな学校に通っているため未識字者は一人もいない。

中国において、老女でも文字を読めるのは、客家人だけかもしれない。

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