《 Republic of Albania 》

首都ティラナの目抜き通り
撮影場所:首都ティラナ、ティラナ駅からスカンデルベグ広場の通り

(2002年9月撮影:ティラナ駅からスカンデルベク広場へ通じる大通り)

官公庁・文化宮殿が建ち並ぶ広場は、ソ連型社会主義時代の、大型で/威圧的で/面白くない/画一的な建物だけ。しかしこの広場に続く大通りには、建国当時から財政難だったためか、小規模で特徴のない建物が並ぶ。

ネズミ講(アルバニア語で piramida)暴動が終結した2年後くらいから、イタリアの援助をうけて、町並み整備が徐々に始まっている。2002年は、目抜き通りの通り沿いの建物のみ、写真のようなペンキを塗り始めている。

ようやく経済が低空ながら安定しつつある現在、外国資本が、ホテルやバーを中心に戻りつつある。しかし会社と呼べるモノ、特にどこでも見かけるような外国企業の“支店”は、ほとんど見かけることはなかった。またスーパーは、ティラナの高級住宅街にしかなく、ここもモノが少ない。

一般的には、キオスクのような小さい個人経営の店か、屋台、露天商が主流。

またティラナには、宿泊できる施設は少ない。施設は値段のわりには満足できるモノではなく、しかも他のヨーロッパ諸国並みに高い。ホテルよりゲストハウスと呼べるものが多く、バス・トイレ共通利用の部屋が10〜15ドル程度。

民泊も黙認されているが、残念ながら良くない噂も耳にする(例えば盗難)。民泊は1泊5〜10ドル程度。民泊出来るとわかる目印はないが、客引きがいるのでわかる。

これら宿泊施設には、コソヴォから逃れてきた難民が多く働いている。※コソヴォ出身のアルバニア人は、礼儀正しいのですぐ判る。

高級官僚とか裕福な人々が住む高層アパート地区にあるモスク(背後に高層アパート)。モスクには老人が目立つ。

*

さて大通りから一歩通りを入ると、家はボロいまま。

イタリア占領下に建てられた古い民居

スカンデルベグ広場近くの裏通りでみかけた趣ある邸宅。高級官僚か社会党上級党員が住んでいた(現在は親類が住んでいる場合が多い)。補修が行き届かず、かなり損傷が激しいが居住者あり。

現在、政府の要職にある者・実業家は、ティラナ大学周辺の高級住宅地に、華麗な(というかケバい)大邸宅を建てているが、家族は南イタリアに住んでいる場合が少なくない、とか。

*

町のど真ん中にはいくつもの更地があり、山羊やロバなどの放牧地になっている。官公庁・文化宮殿があるスカンデルベグ広場から徒歩15分程のティラナ駅周辺は、スラムのようになっている。スカンデルベグ広場からティラナ大学方面は高級住宅街(ホッジャ宅もある)。

またスカンデルベグ広場から、1キロほど離れると、社会主義時代の国営工場の《残骸》を見かけるようになる。

こうした工場の残骸にはもれなく人が住み着いている。勿論、工場にあるはずの工具類は、根こそぎなくなっている。

宿泊したホテル(ゲストハウスが正しい表現)にいたオヤジに問うと、「1990年代初の政変時に、多くのアルバニア人が国営工場から大型・小型機械類を盗み出した。でもその機械類は既に時代遅れの古いモノばかりばったので、隣国の(ユーゴスラビア連邦)モンテネグロくらいしか、買ってもらえなかった」とのこと。

私は、モンテネグロの国境から陸路(ボロいバス)で、首都ティラナに入ったが、稼働していると思われる工場は見あたらなかった。



首都ティラナ

19世紀後半時代、アルバニアの中心地はプレズレン(現ユーゴスラビア連邦コソヴォ自治州)であり、現在の首都ティラナは、ほとんど都市計画がなされていない、人口2,000人にも満たない寒村だった。

1920年、アルバニアは国際社会から「再独立」を認められ、ムスリム(イスラーム信者)が多い中部の寒村ティアラが首都となった。それまでの首都はアドリア海沿岸の港町テュラスだった(1914〜1920)。1921年に総選挙が行われ、イスタンブールの士官学校出身で、ムスリム地主で部族長の息子ゾクが首相となる。

ゾクは、イタリアのムッソリーニ(ファシスト独裁体制、在1922-1945)の庇護のもと、1925年には、アルバニアを半ば強引に共和制に改めて大統領となり、1928年9月には立憲君主国に再度改めさせて、国王(ゾク一世)になる。

アルバニアに興味があったイタリアの独裁者であるムッソリーニは、本格的にアルバニアの町作りを行なった。現在ある都市計画はこの時のものを周到している。

1939年4月、イタリアはついにアルバニアを併合して、イタリアの植民地となる(ゾク一世は英国に逃亡)。内戦やパルチザン闘争を経て1944年11月、「再々度」独立を果たした時には、国内は戦禍で荒廃、ティアナも例外に漏れず荒廃していた。

首都ティラナの中心にあるスカンデルベグ広場には、(現在は国立博物館)と文化宮殿がある。この広場には、巨大なアルバニア国旗の横に、中世の武将スカンデルベグの銅像があり、この銅像と対峙というか斜め前に、ソ連型社会主義時代の独裁者エンベル・ホッジャの銅像があった。だが1990年代初の政変時、破滅的な経済状況に怒る民衆によってひきずりおろされてしまった。

今はガラ〜ンとした「銅像跡地」で、レンタルのゴーカート場になっている。

1997年までは、各家庭に最低1丁以上の銃があり、路上でカラシニコフが50ドル前後で売られていたようだが、今は、その光景はない。カラシニコフの多くは、コソヴォへ流れたようだ。

アルバニア共和国は、隣国でおきた「コソボ紛争特需」で、潤ったらしいyo。






2002年9月撮影


inserted by FC2 system