《イラン・イスラム共和国》
(1997年5月撮影) 年々“過度”に整備されるアルケ・バム アルケ・バム: 東部の都市ケルマンから、南東約200キロ。バムの郊外に廃虚の城塞《アルケ・バム》がある。 城が建設されたのは、ササン朝ペルシア(224-637)時代説、または、アルサケス朝(パルティア、紀元前247頃-後224)時代説、などがあり、詳細はわかっていないが、ササン朝ペルシア時代説が有力、とするものが多い。 アルケ・バムは、地震やその時代に応じて、増改築がなされた。現在も残る遺構の大半は、サファヴィー朝(17世紀)時代もの。イスラーム以前の建造物の形のものもあり、9世紀のものも少し残っている。 1794年、ガージャール朝を創設したモハマンド・ハーン・ガージャール王(トルクメ系、シラーズ軍)は、シーラーズを本拠地とするザンド朝ロトファリー・ハーン王を、バムにて捕虜にし、勝利の証としてザンド朝兵士600名のドクロでピラミットを築いた、らしい。 1810年頃には、軍事的な意味合いが薄れたアルケ・バムは放棄された。 1850年頃から、水不足もあり、人が全く住むことがなく、廃虚と化した。 現在は、貴重な観光収入として、修復作業中。年間約10万人の観光客が訪れる、らしい。 (1997年5月) 写真右側は手付かず (北側にある司令部@一番高い《監視塔》から、アルゲ・バム(全景)を見下ろした写真) ここでの建物や城壁は、全て日干し煉瓦で積み重ね、外を土で塗り固めて作られている。現存する同様の建築物では、世界でも有数の巨大建築群らしい。写真の右側はまだ手つかず状態。 アルゲ・バムは、戦乱時のみ(一時的に)、非常用に住むための城塞として作られた、らしい。そのため、都市機能は備えている。場内には、モスク、学校、住居、宮殿、司令部などがある。塔は30本ほど。地下室や貯蔵庫なども完備。 * バム:バムは、テヘランの南東約980km、パキスタンとの国境まで約200kmにある古都。バムはシルクロードとインドに至るスパイス(香辛料)ロードの交わる街で、古代から近世にかけて「東西貿易の要衝」として栄えた。 町の中心街は、古城アルケ・バムから約2kmのところにあり、約8万人が住んでいる。周囲の人口まで合わせれば、推定約18万人が住んでいる。この地では、伝統的な日乾し煉瓦家屋と、煉瓦作り家屋(中心街のみ)が主流である。 アルケ・バムの周辺には、ユーカリとデイツ(なつめ椰子)の林が広がっている。デイツの赤い実には、豊富なビタミンやタンパク質が含まれている。砂糖と見間違うほど甘い。 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ■イラン南東部で強い地震 ケルマン州バムで、2003年12月26日午前5時28分(日本時間同11時)ごろ、強い地震があった。テヘラン大学地震観測所(地球物理学研究所)によると、地震の規模はM6.3。フランスのストラスブール地震観測所の観測ではM6.6、アメリカ地質調査所国立地震情報センターではM6.7で震源の深さは約33kmと発表。大きな余震も数回続き、最大M5.3を記録している。 ムサビラリ内相は「バムの歴史的な建造物のある地区は完全に破壊された。多数の住民ががれきの下敷きになっている。約2万人が死亡」と語った。死者は「3〜4万人に達する」との観測もある。死者のうち2000人以上が病院で死亡。約15,000人の遺体が埋葬された。 就寝中に地震が起きたため、犠牲者の多くは倒壊した家屋の下敷きになり、窒息死や圧死したとみられる。電話、電気、水道などライフ・ラインが寸断され、一部の人はバム市の北西約200kmのケルマン市に向けて避難を始めている。 赤新月社(赤十字に相当)報道官によれば「歴史的遺産(アルケ・バム)は完全に崩壊した」とのことだが、実際には8割強が崩壊した模様。 地震後のアルケ・バム 被災地の人口は約18万人。バムの民家は、ほとんどがれんが造りの家屋で、約6〜7割が全半壊。イラン内務省は国際支援を要求すると共に「バムは現在、冬であり、毛布や医薬品、食糧、簡易住宅が必要」と述べている。 この地域は、イランを西から南に貫くザグロス山脈の東側に位置しており、この山脈はアラビア半島とユーラシア両プレートがぶつかって隆起したと考えられている。比較的小さなプレートが複雑に入り組んでおり、活断層も多く、その境界部は地震多発地帯。 (2003年12月29日:日本時間6:00) ※バムには、アフガニスタンの難民キャンプがある。 |