《イラン・イスラム共和国》

Masjed-e Azim-e Gowhar-shad(手前)
イマーム・レザー廟(金色のドーム)
撮影場所:Mashhad、Falake-ye Harame-e Matahhar (聖域広場)

(パンフレットより:荷物持ち込み禁止、撮影禁止)


ハラメ・モッタハル(通称ハラム、聖域広場) Falake-ye Harame-e Matahhar Falake-ye Harame-e Matahharという円形の聖域広場は、Mashhad でもっとも神聖な場所。ここにシーア派《12イマーム派》ムスリムの巡礼者が、各地から集まる。

ハラムには、12の門、9世紀に造られたイマーム・レザー廟 Haram-e Motahhar-e Emam Reza、2つのモスク Masjed-e Azim-e Gowhar-shad(大)と Masjed-e Bala Sar(小)、6つのマラドサ(シーア派神学校)などがある。

※女性は、無地で半身以上を覆うチャドル(貸し出しあり)が必要。
※男女とも異教徒入場可能だが、長袖長いズボン又はスカート、靴下を着用。

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イマーム・レザー廟 Haram-e Motahhar-e Emam Reza

818年に“殉教”したあと、この地に墓所が造られたが、初期はスンナ派によって度々破壊され、モンゴル帝国侵略時にも破壊された。現在の廟の基礎は、16世紀、サファビー朝時代アッパーズ1世時代に築かれた。

廟は金色のドームの建物。内部はガラスのモザイク貼り。金色の豪華な柵(ザリー)の中に墓があり、遺体が安置されている。シーア派《12イマーム派》ムスリムの巡礼者は、棺に触ろうと、必死に手を伸ばしている。

●12イマーム派第8代イマーム・レザーの「殉教」

12イマーム派第8代イマーム Emam Reza (765-818、在799-818)は、第7代イマームの子供として生まれた。スンナ(スンニ)派のアッバース朝のカリフであるマームーンの「シーア派宥和政策」により、居住地メディナ(現サウジアラビア)からメルブに招かれた。817年、アッバース朝のカリフの後継者に指名されたが、アッパース家に強く反対される。

818年、トゥース近郊で急死。
シーア派《12イマーム派》は、アッバース朝のカリフであるマームーンによって毒殺された、とする。

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Masjed-e Azim-e Gowhar-shad

1405-1418年にかけて、ティムール朝ゴウハルシャード女王(ティムールの長男の妻)の命により、建てられた。マシュハド(マシャッド)は、ティムール朝(1370-1507)の第三代君主(在1409-1447)と第七代君主(在1451-1469)支配していた時期があった。

ティムール朝は、トルコ・モンゴル系(チャガタイ人)イスラーム王朝。
首都はサルマカント(現ウズベクスタン)だが、事実上、サルマカントとヘラート(現アフガニスタン)に二分されていた。マシュハドはヘラートの影響を強く受けた。ティムール朝は、スンナ派イスラームだが、特にスンナ派系イスラーム神秘主義のナクシュバンデイー教団(本拠地は現ウズベクスタンのブハラ)を保護した。

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