《 中華人民共和国 》

寶樹楼
撮影場所:開平市塘口鎮潭渓村

寶樹楼

潭渓学校内にある、更楼

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横からみたところ

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寶樹楼の裏

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「立園」のサイト(中国語・英語)
http://www.kpliyuan.com/
※洋楼というよりは中華楼

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▼行き方

汽車站」か「長沙汽車站」から4路のバスにのる。観光地「立園」(公福亭)下車。「立園」の隣(少し戻る)の賑やかな村の中にある

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■広東省開平

開平には大小の河川が網状に流れているため、交通の要衝であるとともに、匪賊が多発する治安の悪いところでもあった。また洪水にも度々見舞われた。このため清朝時代には防犯のため、村の高台に、防衛機能・村人の避難場を備えた「更楼」の建築が始まった。

出入り口は、鉄格子も併設した2重の門で、非常に厳重だった。窓は、厳重で小さな鉄窓、分厚い壁だった。

清朝末期(アヘン戦争後)黒人奴隷が廃止されていく時代背景下、アメリカ、カナダ、オーストラリアでは、黒人奴隷に代わる廉価な労働力を求めた。中国人労働者は「苦力」として海外に出稼ぎに行った。貧しい地域だった開平から計67カ国・75万人であまりの人々が、出稼ぎ労働者として海を渡る。

清朝が滅亡し、中華民国が建国された(1912〜1949年)後、開平一帯の治安状態は最悪になった。一時帰国した出稼ぎ労働者が持ち帰る稼ぎを狙う野盗が横行したためだ。防犯上「望楼」は大いに役立ったため、「望楼」の建築ラッシュが始まった。村の出入り口には、「門楼」と呼ばれる3〜4階の小型の監視を目的とする(目立たない)楼を建てた。

1920〜30年代、海外で成功した開平市一帯出身の人々は、一族の「安全」ために砦のような「更楼」を建てた。望楼には、 serchlight や警報機などを設置。壁には銃眼がある。

初期の楼と異なるのは、この時代に建てられた「更楼」は、防護に優れながら人の居住も可能なものが求められたこと。外観は、教会の鐘楼風というか欧州古城風というか、ともかく“華美”な更楼=「居楼」や、西洋式建築風の2〜4階建ての別荘「盧」を建てた。華美だが、野盗が襲撃しても応戦できるよう随所に銃眼がある。

更楼、門楼、居楼、盧、これらを総称して「望楼/」と呼ぶ。(デャオロウ)とは、トーチカがある高い建物‥という意味。

望楼は、主に鉄筋コンクリート、青レンガ、三合土、石などでつくられた。「望楼建築スタイルは、実にたくさんあるが、大部分は中華様式と西欧様式の折衷である。

「望楼」の建築ラッシュは、第二次世界大戦開始直後まで続いた。日中戦争時代や国共内戦時代は、共産党の活動拠点にもなった、らしい。

1949年、中国は中華民国から、中国共産党支配の「中華人民共和国」になると、更楼のうち華麗な居楼(望楼も兼ねた居住する楼)に住んでいた帰国者の多くは、香港・マカオ、台湾、東南アジアなどに去った。さらにブルジュワジーを徹底的に弾圧した《文化大革命》を経て、トウ小平の開放政策が始まると残りの人々も去ったため、空き屋が多い。

「望楼」の“密集地”である開平には、約3000棟の望楼が建っていたが、現存する望楼は1833棟のみ。

望楼が現在も田園の中に林立する地域は、広東省開平〜台山である。

望楼」が集中しているのは、塘口鎮(536棟:地味なものが多い)、百合鎮(385棟:三合土を使ったものなど、特異なものが多い)、赤坎鎮(200棟:凝ったものもある)、蜆岡鎮(155棟:華麗なものが多い)。

2001年6月に全国重点文物保護単位(国務院管轄)に指定され、2007年6月には世界遺産に登録された。


http://www.kaipingdiaolou.com/(中国語)
http://www.kaiping.gd.cn/(中国語)








2004年2月撮影



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