《Republic of Yemen / al-Jumhuriya al-Yamaniya》

放置されたコーヒー商館・倉庫群、および旧市街
撮影場所:モカ

コーヒー商館・倉庫群の跡

コーヒー貿易で隆盛した17世紀、モカの人口は2〜5万人にも及んだ。コーヒー貿易で財を成した商人の豪邸が建ち並んだ、という。現在の人口は僅か千人程度である。

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モスクも廃墟になった

コーヒーは諸説色々あるが、15世紀半ば、イスラーム神秘主義の修行者ザブハニーがイエメンの高地でコーヒー豆を発見。乾燥させて焙煎したものを煮出した汁(=コーヒー)を呑んだ。焙煎して煮出したコーヒーには「覚醒作用」があり、イスラーム神秘主義の修行に役立った、らしい。イスラーム神秘主義者は、このコーヒーを疾病患者にも治療のために呑ませた。

16世紀初、現在のサウジアラビアでイスラーム聖職者が合議して「コーヒーは酒ではなく、イスラームの教えに背くものではない」と決断を下している。飲酒を禁じられているイスラーム諸国(主にアラビア半島)の間で、瞬く間に広まった。

16世紀半ば、イエメンを部分制圧したオスマン帝国は、イエメン産のコーヒー豆をイスタンブール(トルコ)に持ち込んだ。コーヒー飲料「カフヴェ」はオスマン帝国に急速に浸透し、程なくヨーロッパにも伝わっていった。

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モカは、コーヒー貿易で繁栄した港町である。

16世紀初からアラビア半島に向けて出荷されている。イエメンの山岳地帯で栽培されたアラビカ種のコーヒー豆は、モカ港に集積され、オスマン帝国およびヨーロッパ(オランダ、イギリス、フランス等)へ出荷された。イギリス東インド会社、オランダ東インド会社などの商館も建った。

イエメン商人は、他地域でコーヒーの木が栽培されないよう、コーヒー豆の出荷には最新の注意を払った。決して「生豆」では出荷せず、外皮がついたまま自然乾燥させてから「焙煎」したものを出荷した。こうしてイエメンのコーヒーは、世界の市場をほぼ独占。当時ヨーロッパでは船積地モカに肖って、コーヒーのことを「モッカ」と呼んだ。コーヒーは生産量が少なく高価なものだった。

17世紀後半、生豆が密かに持ち出された。イエメンから持ち出された生豆は、オランダを経て植民地のジャワ島で栽培された。イギリスを経てセイロンで栽培された。18世紀前半にはフランスもイエメンのコーヒーの木を植民地ギアナ(南米大陸の北東部)で栽培に成功する。ギアナで育ったコーヒーの木は、ポルトガル領ブラジルに植樹された。列強諸国は、自国の植民地でコーヒーのプランテーションをつくった。これによりコーヒー豆は大量生産が可能になり、安定供給出来るようになった。

イエメンの独占が崩壊すると、イエメン産の高価なコーヒーは需要が減っていき、モカを中心としたコーヒー貿易は廃れた。1839年、イギリスは南イエメンのアデン港を占領。アデン港は大貿易港に発展するが、モカ港は砂の堆積が進み、18世紀半ばには港としての機能を失っていく。

現在のモカに往時の面影はなく、海岸沿いに林立していたコーヒー商館と倉庫群、モスクですら廃墟と化している。

珈琲は今も輸出用として細々と栽培され、コーヒーはイエメンの外貨獲得の代表的な輸出品である。コーヒー積出港は北西部のホデイダ港と南西のアデン港になっており、モカ港からはコーヒーは一切出荷されていない。

1970年代後半になると、栽培等に手間のかかるコーヒー畑の多くは、栽培の手間がかからなく国内で需要の多いカート栽培に切り替えられている。イエメンで生産されるコーヒーはその殆どを輸出に回してしまうため、特別の場合を除いて、イエメン人はコーヒーを飲まない。

その代わりイエメン(エチオピアも)では、珈琲豆の殻を煎じたもの「ギシル」を飲んでいる。だが現在の珈琲生産量からみると、これも希少なものとなっている。







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