《Bosnia and Herzegovina》
エンジ色のユニホーム:FKサラエボ
サラエボには、プロのサッカーチームが2つある。 1946年設立の"FK サラエボ" FK Sarajevo で、本拠地は、 Olimpijski stadion Kosevo /収容人数は37,500名。FWにアブディッチ(元アビスパ福岡)、MFにぺラック(元セレッソ大阪)を擁する。 1921年設立の"ゼレズニチャル・サラエボ" Zeljeznicar Sarajevo は、通称:ジェーリョ。本拠地は、GRBAVICA STADIUM /収容人数は20,000名。ゼレズニチャルとは鉄道従業員の意味で、ユーゴスラビア国鉄の従業員のために作られたチームだった。 Jリーグ(日本)のジェフユナイテッド市原の監督イビツァ・オシム氏 Ivica Osim(本名 Ivan Osim)および、長男でジェフユナイテッド市原のコーチのアマル・オシム氏が在籍していた。アマル・オシム氏は2000〜2004年までゼレズニチャル・サラエボの監督であった。 どちらのチームも強豪ゆえ、両チームの戦いは「サラエボダービー」と言われ、サポーターは滅茶苦茶熱くなる。 FK Sarajevo NK Zeljeznicar ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ ボスニア・ヘルツェゴビナは、同国を三分割するボスニア紛争(1992年4月〜1995年12月)の結果、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(FD:主にムスリム人とクロアチア人、 領土の51%)と Republica Srpska(RS:セルビア人共和国=スルプスカ共和国、主にセルビア人、 領土の49%)という構成体(準国家)をつくって紛争は終結した。紛争は終わったものの、民族間の憎悪は捨てがたいもので、相互の交流は事実上、ほとんどない状況である。 紛争前のボスニア・ヘルツェゴビナには、民族毎に3つのサッカー連盟、3つの代表チームが存在していた。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表チームの左胸のエンブレムは、ムスリムの象徴である「ユリの花」の紋章がついていた。 紛争終結後… ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(FD)では…; セルビア人共和国(RS)では…; ※セルビア系住民にとっての「自分達の代表」はPlavi(セルビア・モンテネグロ代表)、クロアチア系住民にとっての「自分達の代表」はVatreni(クロアチア代表)という意識はまだまだ根強い。 FIFA(国際サッカー連盟)もUEFA(欧州サッカー連盟)も、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(FD)のサッカー連盟 FSBiH を公認したため、セルビア人共和国(RS)のサッカー連盟 FSRS に加盟しているクラブは国際大会に出場できなかった。 2002年、FIFAとUEFAの指導で、ボスニア・ヘルツェゴビナをカバーする、ボスニア・ヘルツェゴビナ・サッカー連盟をつくった。統一リーグ戦は、Bosnia Herzegovina Premier Liga という。 FSBiHとFSRSとの完全な統合はされていないが、2002/03シーズンより統一リーグ戦に、セルビア人共和国 RS のクラブも参加した。1部と2部からなり、現在は1部リーグは16チームで戦っている。 順位表:
ボスニア・ヘルツェゴビナの代表選手には、少数ながらクロアチア系・セルビア系の選手も加わった。2006年ワールドカップ・ドイツ大会に出場する。 ボスニア・ヘルツェゴビナ代表は、ムスリム系の選手が多い。
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