《 Tibet
※2005月9月1日はチベットが中華人民共和国の一部(チベット自治区)にされてしまってから40周年の記念日

チョモランマ《エベレスト》8,848m、北西壁の夕焼け
撮影場所:チベット自治区、ベースキャンプ《標高5,200m》

(1998年11月初旬)

撮影は20時半、残雪が夕日に染まってピンク色になっていきました

(登山のシーズンではないので、テントを張る人はいませんでした)

ヒマラヤ山脈にある世界最高峰 8,848m の山の英語名は、エベレスト Everest。ネパールとチベット(中国チベット自治区)の国境に位置する。

一般的に呼ばれるエベレストとは、ヒマラヤ山脈を測量した英国人 George Everest (1790-1866) に因んで名付けられた名称で、チベット(チベット語)では、「大地の母神」という意味の《チョモランマ》と呼ばれ、ネパール(ネパール語)では、「大空の頭」という意味の《サガルマーター》と呼ばれる。

世界最高峰のエベレストは、いびつな三角錐形の山になっている。
現在は、三角錐を形成する3本の稜線からの登頂と、稜線にはさまれた「壁面」経由の登頂が行われている。

1921年から英国山岳会会員を中心に登頂を挑んだ。主な登頂記録は下記の通り。

(1)1921年:第一次イギリス隊(隊長:ハワード・ベリー)、チベット側からの偵察。
(2)1922年:第二次イギリス隊(隊長:グランヴィル・ブルース将軍)、チベット側からの登攀、7人のシェルパが雪崩で死亡して断念。
(3)1924年:第三次イギリス隊(隊長:第二次と同じ)、チベット側からの登攀。エドワード・フェリクス・ノートン隊員が、標高8,572mに到達。
(4)1933年:第四次イギリス隊(隊長:H・ラトレッジ)、チベット側からの登攀。第三次隊と同じ8572mに到達
(5)1933年5月:イギリス人モーリス・ウィルソンが、シェルパ3名とともにチベット側から登頂の登攀(ノース・コル基部で遭難死)
(6)1935年:第五次イギリス隊、チベット側からの登攀。
(7)1936年:第六次イギリス隊(隊長:H・ラトレッジ)、チベット側からの登攀。
(8)1938年:第七次イギリス隊、チベット側からの登攀。
(9)1951年:イギリス隊(隊長:エリック・シプトン)、ネパール側からの初登攀。東南稜ルートを開拓。

チベット側から8回(北東稜)、戦後ネパール側から3回(南東稜結局、初登頂は、第二次世界大戦後の1953年5月29日、ネパール側《頂上から南に2km伸びた東南稜》から挑んだ、第九次イギリス隊(隊長はジョン・ハント大佐)、登頂者はニュージランド人のエドモンド・ヒラリー氏と、シェルパ族のテンジン・ノルゲイだった。

1960年5月24日、チベット側《北東稜、現在は北稜》から挑んだ中国隊(隊長:史占春)が登頂。だがこの“登頂”には記録写真がなく、公式記録を改ざんしていたことから、実際に登頂に成功したのかは疑問視されている。1963年5月22日、《頂上から西に5.6km伸びた西稜》から挑んだアメリカ隊(隊長:N・ディーレンファース)が登頂に成功、東南稜から下山。初の縦走だった。

*

さてチベット側から見るヒマラヤ山脈は、間近に迫り迫力満点! チョモランマ(エヴェレスト)のBC(ベースキャンプ)には、ペルーチ村を通るメジャーなルートで行きました。

BCには、天候と冠水がなければ四輪駆動車で、比較的楽に行けます。途中まではただのダート道ですが、次第に道は小川兼用になってしまいます。途中で白人のチャリダー(自転車で旅するお方ね)を抜かしました。すごいです。

BCは、氷河跡の谷で、比較的平坦になっています。BCから氷河へは比較的容易に行けます。氷河までの道は、氷河の残したデカイ石ころの山を超えて行きます。石ころの山と山の間には溜まり池があります。吸い込まれそうに澄んだエメラルド色で神秘的です。

BCから見るチョモランマ(エヴェレスト)は、幽玄でした。1998年11月12日は終日快晴!、20:40(pm)までは明るかったです。








チベット国旗

http://www.tibethouse.jp/home.html
(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)




Home



参考文献







inserted by FC2 system