《al-Mamlaka al-Urdunniya al-Hashimiya / Hashemite Kingdom of Jordan》

ペトラ遺跡
撮影場所:ペトラ

al-Khazneh
(宝物殿)

シクと呼ばれる絶壁の間の道から・・薔薇色の・・
突然!視界が開ける!

al-Khazneh は、高さ41m×幅21m。アレタス3世と妻シャキラットの廟としてつくられたが、後に、エジプト・シリア・ローマの混合様式の「神殿」になる。中は何もないガラーンとした空間のみ。

al-Khazneh の地下に「空間」が発見され、そこから王と見られる人骨が出土している。


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ペトラ遺跡:死海から約80km。死海とアカバ湾(紅海)の間にある岩礁地帯の渓谷にあり、かつては交通の要衝・中継基地だった。

紀元前1200年頃からエドム人が住み着き、アラビア半島から移動してきた遊牧民ナバテア人は、アラビア交易の要衝で税を課すことで儲け、やがてエドム人等を追い出す。紀元前6世紀〜前1世紀頃に、死者の崇拝を行う神殿や雨水を排出するダム等をつくっている。ペトラとはギリシア語で「岩」。

だが紀元64〜63年にローマ帝国が東進、ユダヤのヘロデ王の侵略によって勢力を失い、ローマ帝国の支配下に入る。106年にはアラビア州属(直轄)になる。ローマ帝国によって、神殿や劇場などが建てられた。一時期は3万人が暮らしたが、奴隷はいなかった。

ペトラが繁栄したのは3世紀までと推測されている。交易ルートの変更などでペトラの中継都市としての役割は終わる。

4世紀にはローマ帝国のキリスト教化で、ペトラもキリスト教化されるが、7世紀にはイスラーム勢力下にはいる。

769年に大地震がおきて遺跡は砂に埋もれ、ベドウィンが住み着くだけの場所になる。

12世紀に十字軍が遺跡の入り口に砦を築くも、遺跡の唯一の出入り口が「シク」と呼ばれる1.5kmにおよぶ絶壁の谷間の道だけなせいか、発見されず。

1812年、探検家ブクハルト氏(スイス人)は、エブラハム・アブドゥというイスラーム名でペトラに入り、彼によってヨーロッパにペトラ遺跡の存在が知れ渡った。遺跡の発掘作業は全体の約1%しか進んでいないとか。

中東3大遺跡のひとつ(シリアのパルミラ、レバノンのバールベック)。遺跡は岩窟ものが多く、精密な彫刻が残っているわけでもなく、砂岩のためかかなり風化している(修復には力が入りまくりぃ)。

ここの遺跡のウリは、圧倒的な景観(高さ60〜90mもの絶壁)と、採光によって変化する薔薇色を基調とした地層の美しさ。映画「インディジョーンズ 最後の聖戦」のロケ地で、聖杯が隠された神殿として、al-Khazneh が登場する。

1985年に世界遺産になる。

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岩窟神殿群の裏山

ここはツアー客は全く来ないので超穴場!
薔薇色の地層が素晴らしく綺麗、そして雄大。

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岩窟神殿群の裏山の階段

多彩なマーブル:薔薇色=鉄、ウコンのような黄=硫化鉄、鮮やかな青=コバルト、白=石灰・・から出来ている。

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あまり修復していない神殿

神殿は600ほどあるそーーだ

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神殿でクルアーンを諳誦するオバQ

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王家の墓

ペトラ遺跡として公開される前に住み着いていたベドウィンは、遺跡内で物品を売る権利を獲得する代わりに、居住地をペトラ遺跡外に移した。

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ローマ劇場(中央やや左)と住居跡・墳墓群

ナバテア人が岩を刳り貫いてつくった「生け贄を捧げる宗教施設」だったものを、ローマ人が3000人収容できる劇場に改築したらしい(ローマ劇場)。

ここから写真に向かって右にむかって、約3万人が暮らした「ローマ人の街」がある。ペトラには泉や川はないが、岩壁の中に水路が張り巡らされている。

いわゆる「ローマ地区」は、ピンク色の地層がある岩山ではないので、黄色っぽい。この地域の発掘作業は約30%しか進んでいないとか。

写真右上の岩山(ここはまたピンク色)の中腹に、ナバテア時代の建造物アル・ビントがある。ここから「ローマ地区」を眺める景色もヨイ。麓には、ナバテア人が戦勝記念につくったとされる、ナバテア様式でペトラ遺跡最大のアル・ディール神殿がある。13世紀にはここに修道士が住んでいた。






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