《Chairman of the Executive Committee of the Palestinian Liberation Organization》

アファファト議長
撮影場所:パレスチナ自治区

(1997年8月撮影)

パレスチナ解放運動の英雄ヤセル・アラファト アラファート
(すっかり老害オヤジになってしまった…)

1992年に結婚。長女がいる

パレスチナ解放機構(PLO)議長;ヤセル・アラファト アラファート(本名はモハメッド・アブデル・ラウフ・アラファト・アル=クドゥワ・アル・フセイニ)。1929年8月24日生まれ。エルサレム旧市街(※諸説あり)の裕福な家庭に生まれ、カイロ大学で土木工学の学位を取る。1957年にはクウェートに土木を中心とした建設会社を開く。だが1959年頃からパレスチナ解放運動に身をおき、政治結社&武装組織「ファタハ」を創設する。

第一回アラブ首脳会議(1964年5月)でアラブ連盟がパレスチナ解放機構 Palestine Liberation Organization(PLO)を創設。これはイスラエル支配下にあるパレスチナを解放することを目的とした諸機構の統合機関である。

第三次中東戦争以後、PLOはアラファト率いる政党&武装組織「ファタハ」の構成員が多数派を占め、アラファトがPLO執行委員会・第3代議長となる(1969年)。アラファトが議長になると、PLOは、主にイスラエル建国で難民となったパレスチナ人で構成されるようになる。

ヨルダン内戦(1970〜71年)でヨルダンを追われたPLOは、レバノンのベイルートにPLO本部を置く。PLOは1973年に国連のオブザーバー資格を持つなど、パレスチナを公的・国際的に代表する組織となった。

イスラエルがレバノンに侵攻して勃発したレバノン戦争(1982年)以来、PLO本部をベイルート(レバノン)からチュニジア(チュニジア)に移転した。1987年、PLOの影響力が薄れ、アラブ諸国からの援助もなく孤立を深めていたパレスチナでは、反PLO組織である極右武装組織「ハマス」が組織される。ハマスと住民が中心となり、イスラエルの占領地域で《インティファーダ》と呼ばれる住民蜂起運動を行う(第一期:1987〜1993年)。

1988年、PLOは、その本部をチュニスに置いたまま、従来の武力闘争を放棄を宣言。同時にパレスチナ国家独立宣言を行う。イスラエルへの要求を「全パレスチナの解放からヨルダン川西岸、ガザ地域でのパレスチナ国家建設」に方向転換をする。湾岸諸国はPLOの宣言に賛同し、多額の資金援助を行う。

だが湾岸戦争でイラクの支持を表明して以来、アラブ諸国からの支援資金流入が無くなったことにより、パレスチナ内でのPLOの権威は失墜していく。

アメリカ(クリントン政権)を仲介にイスラエルは、アラファトを含むPLOを交渉相手と認め、PLOのアラファト議長とイスラエル首相ラビンが会見する。パレスチナ自治区の暫定自治に関する「オスロ合意」がなされた(1993年9月パレスチナ暫定自治協定がワシントンで調印)。

パレスチナ暫定自治政府が発足(1994年5月4日)。アラファトが「パレスチナ暫定自治政府代表」に就任する。国会に相当するパレスチナ民族評議会(PNC)、パレスチナ国民憲章が事実上の憲法となる。同年7月には、PLOの本部をチュニスから、パレスチナのガザに戻した。またイスラエルのラビン首相・ペレス外相とともに、ノーベル平和賞を受賞する。

が、その後ラビン首相は暗殺され、建設的な話し合いは決裂しているままである。

1996年1月、パレスチナ立法評議会選挙により、アラファトは暫定自治政府の長に選出される。

2000年7月、アメリカ(クリントン政権)の仲介で、イスラエルのバラク首相とアラファト議長が和平協議を行ったが、アラファト議長は合意を拒否して。武装蜂起の準備を開始。

2000年9月、アラファトと敵対関係にあるシャロンが、イスラーム教徒にとっての聖なる地「神殿の丘」をあえて訪問(事実上の挑発)。和平ムードが漂っていたパレスチナ・イスラエル間は一気に緊張した。

イスラエル側ではバラク政権の後継者として極右派のシャロン政権になると、パレスチナ領内に新たな入植地が建設されるなど合意違反が続いている。またアメリカはイスラエル政府の行いを黙認している(イラク問題/大統領選挙戦があるためそれどころではない)

一方、パレスチナには「ハマス」の関連組織を中心とした過激テロ組織は依然存在し、アラファトは効果的な過激派対策をとっていない(黙認)、とされる。つまりアラファトは相変わらず、テロと和平工作の繰り返している、と揶揄される。

アラファトはPLOを、利権の巣窟と位置づけ、私物化(腐敗/身内重用)しているとされ、パレスチナ内での権力闘争に明け暮れている、とされる。アラファトの指導力が喪失し、加齢につれて統治能力が欠如しつつあり、「老害」といわれている。パレスチナ自治政府は事実上、行き詰まっている。

2001年12月、イスラエル軍は、ヨルダン川西岸ラマッラにあるパレスチナ自治政府議長府を包囲し、アラファトは軟禁状態におかれた。

2004年7月には、ガザ地区の治安組織長官人事に従兄弟(ムーサ・アラファト)を登用したことで、パレスチナ人は反発、大混乱に陥った。7月24日にはアラファトは直轄「ファタハ」内部(ファタハ軍事部門のアルアクサ殉教者旅団)からも突き上げられたため、汚職に関与しているとして失職させた前治安組織長官と、共に解雇された仲間12名の復職を認めざるをえない状態に陥った。

パレスチナ評議会は、アラファトに改革推進(内閣総辞職)を求める採択をした(2004年7月21日。43対4)。アラファトの身内重用主義に抗議して先に辞表を提出しているクレイ首相の続投を支持。当面はクレイ首相体制でいくようだ。

「ロードマップ」によれば、2005年末に「パレスチナ独立国家」とイ
スラエルの共存体制が確立されなければならない、ことになっている。だが現在もイスラエルでは、パレスチナ人による自爆テロ攻撃、イスラエル軍による報復攻撃の応酬がやまない。

※ヤセル・アラファト氏死去;
2004年11月11日、フランスはパリ郊外のバルトー軍病院に入院中のアラファト氏が死去。75歳。長らくパーキンソン病を煩っていたが、死因は不明。一時期、暗殺説も飛び交う。10月27日に様態が急変。軟禁状態にあったラマッラ議長府からヨルダン経由でパリに運ばれていた。








Watching



Home


参考資料


inserted by FC2 system