《ラート・アーナーチャック・タイ/The Kingdom of Thailand》

中国国民党第93連隊の残党の村
撮影場所:メーホソーン近郊

村のキオスク
(タイ語と中国語が併記されている)

老人は中国語を話し、若者はタイ語を話す

*

村の全景

村の主要産業は、台湾原産の茶葉栽培と果樹栽培。畑ではトウモロコシが作られる。薬草の栽培も盛んで、タイ人が愛する「ヤードン」yaa dawng は薬草をアルコール漬けしたもの。※メンソール系でリラックス効果がある。日本への輸入は禁止されている。

北部タイの山岳地帯(メーサローン〜メーホンソーン)には、中国国民党第93連隊の元兵士と家族が住む村はいくつかあるが、どれも中国雲南省南部でよくみられる素朴な村。これは彼らが故郷雲南省そっくりの村を再現したため(と言われる)。ただし異質なのは、やや大きめの家では必ず衛星放送を受信するための巨大なアンテナがあること。このアンテナのお陰で、中国と香港のテレビを受信できる。

彼らが、メーサローン〜メーホンソーンにかけての、ミャンマーとの国境付近の山岳地帯に住み始めたのは、1961〜62年。第二次世界大戦の終戦直後から始まった中国国民党と中国共産党の内戦で、中国国民党は敗戦し、約15,000人が雲南省からミャンマーに逃げ込んだ(1949年)。ミャンマーを基点に中国共産党軍(人民解放軍)に対しての抵抗運動を行った。

1961年、ミャンマー政府は、中国国民党第93連隊の元兵士とその家族の国外追放を決定。彼らは馬を使い、整然とした編隊を組んで国境を越えて、タイ北部(メーサローン〜メーホンソーン)の各地に定住した。タイ政府は、彼らを「難民」として認め、タイとの同化を促すが、彼らは1987年まで“中国国民党”が実行支配を続け、武装路線を継続した。元兵士らは武器(M16、カラシニコフ等)を用いて、土着の少数民族を実効支配した。

※中国共産党政権下でおきた文化大革命(1966〜77)を嫌って、逃げ延びて定住した人も住む。

中国国民党第93連隊の元兵士とその家族が定住した地は、起伏に富んだ山岳地帯、北部バンコクの主要都市につながる道路は未舗装だった。外部世界とは隔絶された状態にあったため、麻薬(芥子;阿片/ヘロイン)の栽培に適した。定住早々から中国国民党元兵士は、武器を用いて土着の少数民族を脅しながら麻薬栽培を始めた。麻薬王クン・サー(中国名は張奇夫)、シャン連合SUAを含めた三者間取引を行い続け、「打倒中国共産党政権」のための資金にあてた。台湾国民党との連携もあった。

※クン・サー(1934〜);中国国民党兵士の父と、シャン族の母との間に生まれた。当初、中国国民党兵士として活躍していたが、アメリカの支援の下、シャン族独立の為の独立ゲリラを設立。タイ・ラオス・ミャンマーの国境山岳地帯を、世界の7割を占める阿片供給地「ゴールデントライアングル」をつくりあげ、武装資金源にした。アメリカが「麻薬撲滅」を掲げてクン・サーを国際指名手配したため、クン・サーは国境未確定地区へ経て、ミャンマー山岳地帯に逃亡した。

クン・サーは、シャン族の独立を標榜したモン・タイ軍(MTA : Mong Tai Army)を結成してミャンマー政府軍と抗戦していた。だが、1996年1月に、ミャンマー軍事政権国家法秩序回復評議会 SLORC と間で不可解な停戦に合意をして投降。現在は麻薬資金をビジネスに転用して、財閥を作り上げている。

1980年代前半、タイ国軍はメーサローン一帯の掃討作戦に成功し、麻薬王クン・サーはミャンマーに逃亡した。クン・サーがいなくなったことで、住民意識が変わった。1986年、メーサローン在住の中国国民党第93連隊長である段希文が死去したこともあり、1987年、中国国民党第93連隊の元兵士および家族は、武装放棄して、タイ国籍を取得した。





inserted by FC2 system